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item1h3a1c1b2a3a1b3b1a3a3a1a1a えんじの人々( 15)青春は二度と戻って来ない!いつやるのか?いまでしょ!

松本 喬 さん(昭和34年政治経済学部卒業)

2013年8月掲載

松本喬さん(まつもとたかし)

1955年(昭和30年)3月早大学院卒、同年4月早稲田大学政治経済学部入学と同時にバレーボール部入部、当時は9人制が主流で、守備と攻撃のつなぎ役、ハーフセンターのポジションを務めた。在学中に9人制・6人制併用の試行期間を経験、4年生のとき9人制では全日本大学選手権大会(神戸、王子公園コート)でベスト4。6人制では第1回全日本総合選手権(東京体育館)で、学生チーム唯一勝ち残り、決勝で実業団の雄「八幡製鉄(現・新日鉄)」と対戦、フルセットでマッチポイントを握りながら、あ1点がとれず涙をのんだ。1959年(昭和34年)3月卒業、同年富士フイルムに入社、足柄工場に勤務の傍ら実業団バレーボールチームで選手生活を続け、この間、都市対抗、全日本実業団選手権、国体など全国大会に数多く出場。富士宮市在住中に市議会議員に当選、市政の一端に携わると共に、ママさんバレー・小中学生バレーなどの普及に取組みバレーボール競技の底辺拡大に貢献した。平成14年から約6年のあいだ、稲門バレーボール倶楽部指導委員長として、男女現役選手の指導育成に取り組んだ。

早稲田でバレーボールを始めたきっかけについてお聞きしました。「私は中学(昭和24年、まだ戦後の荒れ果てた時代)で初めてバレーに出会い、その魅力にすっかりはまって、高校進学もバレーをやりたくて早稲田の付属高校を選びました。当時の高等学院は戸山(現、記念会堂のある場所)に校舎があり、練習コートは戸塚の屋外コート(現、バレー部会議室記念館のあるマンション敷地)で、3面あるうち2面を大学生が、1面を高校生で使わせてもらっていました。当時の早大は6大学リーグのスーパースター(鈴木正吾さん、遠藤整治さん等々)がいっぱいで、われわれ高校生はいつも大学生の凄いプレーを目の前で眺めながら「いつかは自分もあのように」と胸をときめかせて練習に励んでいました。従って、高校卒業と同時に待ち切れない思いで大学に飛び込んだわけですので、早稲田のコートには4年間でなく、昭和27年「学院入学」から34年「大学卒業」まで、7年間「えんじの汗と涙」が染み込んでいるのです。これは付属高校出身という私の特権かも知れません。しかし私たちの時代はともかく、現在の学院は文武両道というより学問偏重のような傾向がみられ、大学進学後、体育会に所属してまでスポーツを続けようという生徒が少ないようです。数少ない付属高校出身OBとしては寂しい限りです。と言っても私も現在77歳、もう60年も前の思い出ですね。「初めから早稲田ありき」だったわけです。もちろん高校~大学を通じて練習は苦しかった、辛かった記憶の方が多いです。でも共に同じ釜のメシを食い、合宿の風呂場で背中を流しあい、裸の付き合いをして得た生涯の友は(もう半分くらい、あの世へ逝ってしまいましたが)、何物にも代え難い宝物です。」

大学4年間での思い出は”負けた悔しさ”です。「最終学年の時、シーズンも終わりに近い12月、東京体育館の全日本総合選手権(6人制第1回大会)でしょうね。決勝戦で八幡製鉄とフルセットの大接戦、マッチポイントを取りながら最後の1点に届かず、ついに逆転負け。逃がした魚は大きいと言いますが、試合終了のホイッスルは50年以上たった今でも耳に残っています。因みにその時の八幡製鉄には慶応OBの加藤さん(故人・後の南米ペルーに日本のバレーボールを持ち込んだ)がいました。」

現代の学生に伝えたいことは、「それはアスリートとして先ず「個のパワー」をそれぞれ一人ひとりが徹底的に高めて欲しい」と言うこと。集団(チーム)としての強さはその次でいい。18歳から22歳くらいまでの年齢なら、毎日、地道にトレーニングを重ねれば、例えばサージャントジャンプを4年間で30センチくらい伸ばせるかも知れない。垂直跳びで30センチ伸ばせたら、どんなスパイクが打てるか?夢のような世界が広がるでしょう。夢を持つことは「若さの特権」です。青春は二度と戻って来ない!いつやるのか?いまでしょ!(笑い)」

松本喬さんは、本年20134月13日から29日までの日程で、ブラジル南部(サンタ・カタリーナ州)縦断し旅しました。南米と日本のバレーボール、とりわけ早稲田とのつながりも深く、稲門バレーボール倶楽部の仲間では42年卒の今井庸浩さんの、そして高校時代の先輩・後輩たちの出迎えを受けたそうです。全行程の移動距離およそ3800キロのバレーボール旅行記を寄せていただきました。「みんな異口同音に言っていましたよ『やっぱり早稲田のバレーで鍛えた心と身体があったからこそ、この地球の裏側で頑張って来られた』と」

「ブラジル訪問記」  S34年卒 松本 喬

はじめに

地球の裏側で待っていてくれる友がいるって、ちょっと考えるだけで愉しい。お互いにもうトシだし、今後そう元気な姿で会えることもなかろう・・・と言うことで、母校(早大学院)バレー部で同じ釜のメシを食い、共に苦労した旧友に会いに遥かブラジルまで行って来た。今年4月、約2週間にわたる「南米ブラジルの旅」の記録と思い出を寄稿させていただく。この歳になって、多くのことを学んで来た。若い後輩諸君の人生にとって少しでも参考にして頂けるならば幸いである。

旅の目的

折角のブラジル、しかも初めての南米大陸訪問である。大いに観光旅行も楽しみたいところであるが、今回の旅の真の目的は第一に旧友との再会を果たすこと、次いで彼らが日本人移民村に移住して数十年、日系ブラジル人二世・三世の時代になって、後世に「日本人の心」を引き継ぐにあたり、少しでも彼らの手助けをしたいと思ったことにある。そのため旅の大半の日程は、サンパウロから約1000キロも離れた南部「サンタ・カタリーナ州クリチバーノス・ラーモス村」に滞在することとし、観光は世界遺産「イグアスの滝」、リオデジャネイロで本場の「サンバショー」を見学、コパカバーナ・イパネマの海岸で陽気なカリオカの娘さんの姿を堪能する程度にとどめ、もっぱら現地日系人らとの交流・親善に努めた次第である。

日伯親善

ラーモス村での日伯親善行事には村中の人々ほとんど全員が参加、我々一行(総勢7名)を歓迎してくれた。セルベージャ(ブラジルのビール)、シュラスコ(ブタの丸焼き郷土料理)などを振る舞ってくれたことは言うまでもない。

我々一行の中に「蕎麦打ち名人(3段位)」がいて、日本から持参したそば粉・麺つゆ(蕎麦打ち道具一式まで持ち込み)で、「手打ちそば」を茹で上げ、お返しに賞味してもらった。これがあまりにも美味しく出来上がったので大反響をよび歓迎会を大いに盛り上げることになったわけであるが、実を言うとラーモス村では「蕎麦の栽培」がようやく軌道に乗ったばかり、「そば粉の収穫」は叶ったものの「蕎麦打ち」の技術レベルが低く、美味しい蕎麦を食べるところまで達していなかったよし。我々グループの中に蕎麦打ち名人がいることを知った某氏が、実は行事の一環に「蕎麦打ち講習会」をとり入れんと裏で手をまわしていたことが判明。でもこんな密約が両国親善に役立つなら大いに結構と一同大笑い。この時、名人が残していった「蕎麦打ちレシピ」と「道具一式」が、今後ラーモス村の農業振興に役立ってくれることを願ってやまない次第である。

アクシデント発生!

ラーモス村で歓迎され調子に乗って昼時にセルベージャを飲んでシュラスコを頬張り、談笑しているうちに二世・三世の若者から「マツモトさ~ん、表でバレーボールやりましょう!」の声。若い子供たちにカタコトの日本語で誘われたのがつい嬉しくなってバレーボールを手に。

円陣パスくらいでやめときゃよかった!ボールを手にするといつの間にか年齢を忘れてつい夢中になってしまうのは、長年、体に染みついた悲しい性か?そのうち誰からともなくトス・アタック・レシーブ・・・・と。そのとき、ウシロから誰かにガツン!と足元を殴られたような感じが!アッと思った瞬間、左足の感覚がなくなり、その場に転倒。ものの見事にアキレス腱断裂!と相成った次第。

日系ブラジル人の熱き心に触れて

しかし、ここでこの地区に住んでいる日系ブラジル人の本当の優しさ、お互いに助け合って生きている絆の強さ、何事にもプラス思考に考える芯の強さを改めて見せて貰うことになろうとは!

みんなが心配して「今できる最善のことは何か」、まさにチームで動いているよう。たまたま日曜日で病院があいていない、取り敢えず応急処置を!と言うことになり、なかに鍼灸の心得のある人がいて痛みが少しでも和らぐようにとツボにお灸をすえてくれたり、偶然、半年まえにアキレス腱を切ったという人がいて、その時、使ったギプスと松葉杖を取りに戻ってくれて足首をしっかり固定してくれた、その他、日曜日でも開いているドラッグストアを一時間もかかる街中まで探しに行ってくれる人、みんなが「今できること」を一生懸命やってくれる・・・そんな我々日本人社会が忘れかけている隣人愛というか、人間同士の絆の強さを遥か離れたこの地で垣間見ることが出来たのである。これはまさに「怪我の功名」と呼ぶに相応しいのかも知れませんが、移民村の日系ブラジル人が如何に共存共栄の精神で、互いに力を合わせ生き抜いて来たか、これが本当の人間の持つ力であろうと感動したことを今でも鮮明に覚えている。同時にすべて自らの不注意で招いた事故とは言え、情けなさと悔しさ、それに異国の空でのアクシデントに恐怖と不安、心細さも加わり、一晩中まんじりともせずに過ごしたブラジルの夜を、今でも忘れることが出来ません。

後輩の諸君へ

「虹」とは空を見上げてみるものだとばかり思っていたのが、眼下に見降ろしてみるものと初めて知ったイグアスの滝。「南十字星」なんておとぎ話の世界に出てくるものと思っていたのが、まさに手の届かんばかりの近くに輝いてみえる、街灯一つない漆黒の闇のなかのラーモス村。

大自然とはこんなものだった!70数年生きてきてよかった!大西洋の荒波が押し寄せる満月の夜の海辺で、満天下の星空を眺めながら、もう思い残すことはない!と。

長く外国で勤務されたり、仕事や旅行で世界中をとびまわっているだろう若い後輩諸君に、いまさら私の『訪伯記』を読んでもらうのもどうかとは思ったけれど、新天地を求めて移住した先輩たちの、そして今も二世三世に受け継がれている「進取の精神」、心意気、今の日本では失われかけている「やまと魂」、家族の絆、優しさや思いやり、助け合う心、そういったものすべてに出会うことが出来たこのブラジルの旅の一端を報告させていただきました。出来ることなら、こういった絆が世代を越えて若い諸君につながって行かんことを願って。

来年はサッカーワールドカップ、3年後のオリンピック開催と、かの地は活気でみなぎっています。百聞は一見にしかず、みなさん是非行かれてみたらどうでしょう。人生観が変わりますよ!ご希望の方は私にご連絡ください。アテンドしてくれる現地の方を紹介させていただきます。

以上

早稲田大学バレーボール部

 about  
 早稲田大学

WASEDA UNIVERSITY VOLLEYBALL CLUB 

早稲田大学バレーボール部男子は、昭 和6年(1931)創部、翌昭和7年(1932)関東学生排球連盟が結成され、早大の公式試合の初参加となる関東学生春季リーグに出場。昭和9年 (1934)春リーグで初優勝、昭和10年(1935)春季から昭和16年(1941)秋季リーグまでリーグ戦14連覇の偉業を果たし、戦前の日本のバレー ボール界をリードしてきた。また戦後も、昭和23年の第1回全日本大学選手権で優勝、昭和28年(1953)単独で渡米し全米選手権に出場し、世界の主流 であった6人制バレーを体得、日本へ持ち帰り、6人制のパイオニアとなった。関東大学リーグ優勝23回、全日本大学選手権優勝3回、準優勝3回。2012年度全日本大学選手権 第3位、2013年度秋季関東大学リーグにて27年ぶりの優勝を、また同年全日本大学選手権で61年ぶりの優勝を果たした。伝統ある定期戦は、慶応義塾大学との「早慶戦」(2013年度、第77回)、関西学院大学との「早関戦」(同、第65回)、OBも加わって競う「全早慶明」(同、第66回)の定期戦がある。2013年度、男子は関東大学リーグ1部リーグに、女子は2部に所属。毎年、リーグ戦優勝と学生日本一をめざして、学生自主のもと、鍛錬している。

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