item11
item11

早稲田大学バレーボール部 創部 昭和6年(1931年)

item11
item11
item11  部の紹介  高校生の皆さんへ>男子 >女子 item11
item11

item1h3a1c1b2a3a1b3b1a3a3a1a1a えんじの人々(27)「戦後の大学バレーボールを再建」

中吉 啓治さん(昭和22年 1947年 学部卒業)

201年8月掲載

         中吉啓治先輩を偲んで

               古我和俊(昭和27年商学部卒業)

 2016年6月5日、中吉先輩ご逝去という訃報に接し、驚きと

悲しみで一杯になりました。というのは、その前日、奥様から電話

をいただいていました。私から5月31日付でお出しした春リーグ

戦や、私自身の近況などを書いた手紙のことでした。入院中の中吉

先輩に届けていただいたということで、ご主人様にかわってのお礼

の電話でした。その時の奥様の声から、かなりお悪いのではないか

と案じていたとことへの、あまりにも早い訃報だったからです。

 中吉先輩は、1942年に入学され、1947年9月に卒業

されました。戦中と戦後早々という大変な時代に学生生活を送られ

たことになります。そして、1945年8月終戦とともに軍隊から

復員されました。終戦直後の、衣、食、住、全てが不足し、混沌と

した世情の中で、バレーボール部再建のリーダーとして、同期の

前田、飯田、八田、岩田の諸先輩と共に、直ちに行動を開始された

のであります。今から約70年も前の時代、現在の稲門クラブ会員

の大多数の方々にとって、随分と昔のことでありますが、歴史を

知ることは大切なこと、早稲田のバレーボール部に深い愛情と情熱

を生涯持ち続けられた中吉先輩を偲びながら、再建の歴史をふり

返ることも意義のあることと考え筆をとらせていただきました。

 戦後のバレーボール部再建の道程は本当に大変だったと聞いて

います。先づ、部員の確保からはじまります。いろいろなルートを

通じて部員の消息をたづねると共に、入部希望者を募りながら順次

増員されていきました。練習を再開するためには、芋畠になってい

たコートの整備、又、ボール、ネット等の修理、調達が急務でした。

そしてバレーボール部体制(監督、主将、マネージャー等)の確立

と学校当局への届け出、他校との積極的な交流による関東大学連盟

の設立、リーグ戦開催の準備、と夫々の実現に文字通り全身全霊を

ふりしぼって行動されました。そして、終戦の翌年の春には、大学

リーグ戦が再開される運びになったのです。その早い復活振りは

見事というほかありません。中吉先輩を中心とした当時の先輩方の

ご尽力に心から敬意を表するものであります。

 中吉先輩は、こうした体制作りと併行してチームの強化、育成に

も手腕を発揮されました。公式試合は、1946年5月の早慶定期

戦を皮切りに関東大学リーグ戦が始まります。それに備えて、4月

に粕壁(今の春日部)に於いて、地元後援者の協力を得て初の合宿

訓練が行われました。チーム力としては、岩田先輩の攻撃力を

チーム全員でどう生かすことができるかにかかってました。

戦績の方は、早慶定期戦は勝ちましたが、リーグ戦の方は東大が

全勝優勝、早稲田は2位に止まりました。そして秋のリーグ戦では、

早慶明同率となり、決定戦で明治が優勝、早稲田は3位に甘んじま

した。そして、1947年の春のリーグ戦、9月卒業の中吉先輩に

とって最後のリーグ戦を迎えたのであります。

 その1947年の春、私はありがたいご縁に導かれて(中味は長

くなりますので省略しますが)旧制の早稲田第二高等学院に入学し、

バレーボール部に入部することになりました。早速、片倉製紙大宮

工場での合宿に参加、これが、当時主将であった中吉先輩とのあり

がたい出会いになったのであります。この合宿での中吉先輩の印象

は、がっちりした体格で、精悍な風貌、そして大きな声、実に存在

感の大きい方だったと思いだされます。主将と新入生部員との距離

感は大きなもの、合宿中は直接話ができる機会は殆どなかったよう

に思います。しかし、学校に帰ってからの練習では、練習中はもと

より、練習のあともマネージャーであった前田先輩ともご一緒で

よく誘っていただき、バレーに対する心構えを中心に、いろいろと

親しく話をさせていただきました。当時のメンバー構成では、

セッター役が人材不足で、新人の私がレギュラーに起用されました。

未熟な私を早く育てたいということで、このようなマンツーマン

指導をいただけたのだと今も感謝しています。

 中吉先輩のバレー観は、一口でいえば、コートは「道場」であり、

プレーの一つ一つは「行」であり、真摯な心で立ち向かう、という

ことでした。中吉先輩はそれを身をもって示されてたように思い

ます。練習が苦しい時もその言葉がいつも後押ししてくれました。

当然のことながら、練習に対しても真剣でした。試合の前日は、

「作戦会議」が招集され、明日の試合に対する「作戦要務令」なる

ものが示されます。試合を前半、中盤、後半と三段階に分け、誰が

いつどうするか、ということが細かに書かれていました。相手を

深く研究された上で、中吉先輩の勝つためにイメージが描かれてい

るのです。実戦になれば、その通りになるわけはないのですが、

それを聞きながら自分のイメージを作っていくことによって、気力

が充実してきたことを覚えています。中吉先輩のこうした努力の

積み重ねが見事に実を結びました。春のリーグ戦に優勝したのです。

当時の新聞記事(朝日新聞)によれば、「今尚、陣容に苦しむ早稲

田を常に情熱をもって引っ張ってきた中吉主将をはじめ部員達の

努力は称賛に値する。」とありました。見る人にも感動を与え得る

勝利だったのです。そのあとに開催された学生東西対抗戦でも、

京大と関学を破って大学日本一に輝きました。中吉先輩にとって

これらの勝利は、今までの努力が並々ならぬものであっただけに、

何ものにも変えられぬ喜びであったと思います。

 ご卒業後は、故郷の広島に帰られ、オーナー経営者として家業に

専念され、バレーボールどころでがなかった筈であります。しかし、

中吉先輩はそんな環境にあっても、早稲田のバレーボール部に対し、

愛情と情熱を生涯持ち続けられました。稲門倶楽部総会にも度々

出席をいただき、日常においても、時折りいただくお電話やお便り、

又、こちらからの近況報告に対する懇切なるご返信の中に、そのお

気持ちが満ち溢れていました。

 ここに、中吉先輩の戦後のバレーボール部復活のリーダーとして

のご功績を称えると共に、長年に亘るご後援に深謝し、謹んでご冥

福をお祈り申し上げます。            合 掌

(追記)戦後復活の経緯については、集まり散じて五十年」

早稲田大学バレーボール部史 )P47~58、拙書「たかがバレー、

されどバレーボール」P41~52に詳述されています。

トップへ リンク 女子部 女子部 item6a2a 稲門バレーボール 男子部 女子部 男子部 item5 女子部