item11
item11

早稲田大学バレーボール部 創部 昭和6年(1931年)

item11
item11
item11  部の紹介  高校生の皆さんへ>男子 >女子 item11
item11

item1h3a1c1b2a3a1b3b1a3a3a1a1a えんじの人々(28)「たかがバレー されどバレー」

古我 和俊さん(昭和27年 1952年 商学部卒業)

201年10月掲載

 古我和俊さんは、戦後早稲田大学バレーボール部が復活し、まだ社会も大学内も混乱していた苦しい昭和20年代に活躍した、「大学ビッグスリー早慶明」の代表的な選手です。地方への合宿、大会参加にも、旅費や食糧難に悩み、試行錯誤しながら、バレーワセダを再建していった一員です。リーグ戦や全日本大学選手権(インカレ)に優勝し、卒業後は、実業団の日本鋼管チームを引っぱり、選抜チームにも選ばれて活躍しました。早稲田大学バレーボール部50周年(昭和56年、1981年)に備えて、稲門バレーボール倶楽部幹事長に就任し、五十年記念誌発行と記念パーティ開催を指揮しました。その後も、長く部の試合に足を運び応援、現役選手へのアドバイスを続けています。現在87歳の長いバレーボールの人生から、いまの現役選手の姿がどのようにその目に映っているのか、そして学生4年間を悔いないようにすごすためにどうすればいいのか、平成28年秋の関東大学リーグ戦の会場近くでお話を聞きました。

 

早稲田に入学、バレーボール部に入部のいきさつと新人時代

 中学(旧制)時代は、早稲田進学を強く意識していたわけではありません。自分の得意な受験科目だったので早稲田大学第二高等学院を受験しました。入学後もバレー部に入部するつもりはなかったのですが、中学時代のバレーボール部の先輩がその道を作ってくださり、バレーボール部に入部することになりました。よきご縁に恵まれていたことを今も感謝しています。

 私が入部した時の最大の幸運は、三人の先輩、即ち中吉啓治主将(昭和22年法学部卒業)、前田直道マネージャー(昭和22年政治経済学部卒業)、チーム唯一のポイントゲッター岩田三郎先輩(昭和24年法学部卒業)に出会えたことでした。

 中吉主将は、風貌精悍、がっちりした体格、情熱的で厳しい口調の中にも温かさを感じさせる素晴らしいリーダーでした。(別記の「中吉啓治先輩を偲んで」に詳述)、前田直道マネージャーは温厚な風貌、中吉主将の補佐役として、部員一人一人に気を配っておられました。私は、人材不足の折柄、新人ながら是前衛のセンターとして登用されたため、少しでも早く育てたいということだったと思いますが、練習中は勿論注視され、練習後も中吉主将と共によく誘っていただき、氷あずきなどをご馳走になりながら技術だけではなく、選手としての心構えを含め、貴重な話を聞かせていただきました。岩田先輩は全日本レベルでも有数なプレーヤーでした。チームとしての練習は如何にして岩田先輩の所へトスを上げられるかが重点でした。温厚で口数の少ない方でしたが、プレーに対する情熱と研究心は大変なものでした。

 入部最初の2か月間、私の下宿と岩田先輩のご自宅が近所だったので、練習の帰りは殆ど一緒の電車でした(早稲田-飯田橋-東京-藤沢-江の島)。岩田先輩の持論は、「コート外での練習にこそ上達の秘訣がある」ということでした。「君はジャンプ力が足りないよ。コートの練習だけでジャンプ力がつくものではない。電車に乗っている時は踵をつけずに立っていなさい」と命令されました。最初は5分もすると踵をつけることになります。そうすると横で踵をつけずに立っておられる岩田先輩から注意されるという毎日でした。しかし、1週間もすると慣れてきました。(1年位続いたと思いますがそれでジャンプ力がついたかどうか自覚はありません。しかし、人からはだいぶ跳べるようになったと言われたことを記憶しています)。又「風呂に入った時湯舟の中で手首を100回は振ってスナップを強くする練習をやれ」とも言われました。何事もよいと思うことは素直に受け入れて続けることが大切、その成果は直ぐには現れず、自分では気がつかないが、評価は他人がしてくれるもの、そんな得難い体験をさせて貰いました。階段は一段飛ばして跳んで上がる、フットワークをよくするために人ごみを歩く時できるだけ速くそしてぶつからないように歩け、等々、日常生活の中にバレーボール上達の種がある、という教えでした。

 

中堅時代からキャプテンの時代

 入部3年目の昭和24年は苦難の年でした。唯一のポイントゲッターの岩田先輩が卒業され、私がその役割を引き受けることになりました。本来セッター役の中でチャンスを見て攻撃するタイプでしたから、岩田先輩の代役を勤めることは無理でした。メンバーの揃った慶応と明治には歯がたたず、春のリーグと大学選手権は3位、秋のリーグは4位に止まりました。

 その翌年の昭和25年は有力選手が多く入部してくれました。春のリーグ戦は3位でしたが、私は本来の前衛のセンターに戻り、両翼に新人アタッカーを配する布陣ができました。そして、その力が結実して私の故郷京都での大学選手権で、春のリーグ戦で敗れた慶応と明治を連破し、決勝戦では地元同志社に勝って見事に優勝。久しぶりの優勝に全員嬉し涙を流したものでした。「好事魔多し」と言いますが、秋のリーグ戦は散々でした。一身上の都合で、と関谷主将が退部され、チームのムードが悪くなり5位という不名誉なシーズンになってしまいました。

 そして、翌昭和26年、キャプテンを命じられた私でしたが、チームのムード改善という大仕事の中で、私自身にアクシデントがありました。2月に悪化していたヘルニアの手術が必要となり、全治3か月とてプレーを離れることを余儀なくされたのです。陣頭指揮のつもりが、ベンチでの指揮、何とももどかしい思いでしたが、部員達は「俺たちでやらねば」と却って士気が高まったようでした。コートの外で叱咤激励するだけの毎日でしたが、選手一人一人の意気込みが私の胸に伝わってきました。そして、それが結果に現れました。第1週目は立教と2連戦、第2週目は明治と2連戦で何れも強敵でしたが、私抜きで連勝、素晴らしいスタートでした。そして第3週目は優勝候補の慶応。何とか体が快復した私が出場するかどうかの選択に立たされました。私抜きでよくまとまっているチームがよいか、プレー的には私が出場したほうがよいのか、迷うところでしたが、やはり出ると決意。接戦となりましたが1勝1敗の結果を残すことができました。以後は私もフル出場して9勝1敗の成績、慶応が明治にも1敗したため早稲田の優勝が決まりました。文字通り部員全員で勝ちとった栄冠に涙したことを今もよく覚えています。

 リーダーの在り方には陣頭指揮でグイグイと引っ張る形と、チームの一人一人が主役のように懸命になってリーダーを支える形があるように思いますが、このリーグ戦は後者の形で成果を挙げることができたと感謝しているところです。

 

いまの現役チームを見てどのように感じますか

 男子チームは、山口頌平君、田中健翔君、加藤久典君の4年生を中心に気力の充実した良いチームだと思います。技術的な見方をしますと、山口君の巧みなトスワークと打ち易いトスが生かされた時は強いチームです。超大型選手がいないだけにサーブレシーブが乱れたり、ラリー中のボールが山口君に廻らなくなると攻撃力が低下して苦戦することになります。山口君は傑出したセッターだと思います。3年前のリーグ戦と全日本大学選手権を制した偉業には、新人ながらセッターとして大きな貢献をし、以来チームの要としてチーム力の向上に尽くしてくれました。フットワークがよく、さっとボールの下に入り、腰の入ったトスはアタッカーにとって実に打ち易い筈です。それだけにこのセッターにうまくボールが廻るように、より一層のサーブレシーブ、ブロックとレシーブ力の向上を期待しています。

 女子チームの方は文字通りチーム一丸となっての健闘で、一部リーグで頑張っているのは立派です。技術的には離れたトスや二段トスでポイントできるアタッカーが居ないだけに、レシーブボールがセッターに入り、セッターのトスワークで攻撃者がポイントする、というパターンをどれだけ多く実現できるかにかかっていると思います。サーブレシーブ、忠実なブロック、レシーブの強化が重要。以上、男女チーム共々「気力だけは絶対に相手に負けない」という信念を持ち続けていって欲しいと期待しています。

 

早稲田らしいチームとは何でしょうか? 現役選手たちへのメッセージをお願いします。

 一口で言えば学生として「文武両道」をモットーに、それを実践するチームであって欲しい、ということでしょうか。私が入部した新人の頃、先輩に言われたことは三つありました。「授業には必ず出席しろ」「練習は休むな」「健康管理は自分でしっかりやれ」。言葉でいえば簡単ですが、これを実行するには大変な努力が必要です。しかし、これをどれだけ真面目に実行できるかが各人の将来を決定づけるように思います。

 充実した内容の練習をやって疲れた体で帰宅、翌朝早く起きて授業に出て、講義内容の吸収に集中し、授業が終われば又練習コートへ、という生活。学校との往復時間には、バレーボールのこと、学業のことで頭が一杯、クラス仲間に授業のあと遊びに誘われても断っての生活、「文武両道」をモットーにする限り、こういう生活パターンにならざるを得ません。私の学生時代、どこまで実行できたかは反省の多いところですが、その思いだけは常に持ち続けて学生生活を送れたことを感謝しています。

 学生生活の貴重な4年間、毎日を大切にして、「よくやったな」と自覚できる生活を送ってほしいと思います。

 

古我和俊(こが かすとし さん)

1929年(昭和4年)京都市で生まれる。1947年(昭和22年)3月京都府立京都第一中学校を卒業、4月早稲田大学第二高等学院に入学し、関東大学春季リーグ戦で前衛ライトで大学デビュー(2週目からセンターポジション)、4年生の時に主将をつとめる。1952年(昭和27年)商学部を卒業し、4月に日本鋼管(株)に、盟友の慶応の松平康隆さんと共に入社、1958年(昭和33年)に現役選手を引退した。

学生時代に、関東大学リーグ戦優勝4度、全日本大学選手権優勝2度。日本鋼管時代に、都市対抗優勝2度、全日本総合選手権優勝1度。また選抜チームに選ばれて、一般東西対抗戦8度出場(昭和22年から29年)、昭和29年の戦後初の全日本チーム海外遠征(香港)に参加した。

1958年(昭和33年)から1975年(昭和50年)まではバレーボールから遠ざかる。(社業と家庭生活に専念)

1975年(昭和50年)日本協会(当時和田助則専務理事)による全国バレーボーラーの集い(約300名が出席)に出席したことがきっかけとなってバレーボールが甦る。(以後、「東西対抗出場者の集い」が生まれ東軍世話人として2008年まで続く)。1980年(昭和55年)に稲門バレーボール倶楽部幹事長に就任し14年間OBOG組織をまとめて学生現役を支援、1994年(平成6年)から11年間副会長として品田会長並びに水野会長を補佐した。以後は「現役応援団」の一員として、試合の会場に足を運び現役選手への応援を続けている。

トップへ リンク 女子部 女子部 item6a2a 稲門バレーボール 男子部 女子部 男子部 item5 女子部