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早稲田大学バレーボール部 創部 昭和6年(1931年)

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item1h3a1c1b2a3a1b3b1a3a3a1a1a えんじの人々(31)「あきらめずに物事に真摯に向き合おう」

本田 欣誠さん (平成5年人間科学部卒業)

2018年3月掲載

早稲田大学バレーボール部の卒業生OB・OGでつくる稲門バレーボール倶楽部。本田欣誠さん(平成5年卒業)は、北海道の公立高校から一般入試に挑戦し、一浪の末新設されて間もない早稲田大学人間科学部に入学しました。高校時代に全国大会などの経歴を持たず入部しても下積みが続きましたが、チームをよく支え1部リーグ復帰に貢献しました。卒業後金融機関に勤務後、一念発起して理学療法士の資格を取り、自分がかねてからやりたかった医療の業務に従事しています。「あきらめないで真面目にバレーに取り組むこと」の大切さについて、お話を聞きました。

今年、早稲田は学生日本一になることができました。本田さんは祝勝会にも参加していました。

秋季一部リーグ完全優勝と、全日本インカレ優勝おめでとうございます。2学年上の大変お世話になった松井泰二さんが監督をしていることもあり、大変うれしかったです。私が現役時には法政大や日体大が強かったですが、今年のこのような圧倒的な成績を残した大学の記憶はなく感嘆する次第です。2月4日に開催された優勝祝賀会に出席させていただいた時に、祝辞や先輩、後輩からお話を聞き、他大学に比べ個々の体格や経歴には恵まれないものの、組織的なブロックやレシーブ、チーム力が傑出していることがわかりました。一人ひとりが、どこの大学の選手よりも真摯にバレーに向き合い、突き詰めた結果であり、充実した監督・コーチ・スタッフ陣、OBの皆様の支援の結集と思いました。今後は、他の大学から目標とされる立場となりますが、今回の経験を活かして、早稲田バレーを追求し、充実した大学バレーの時間を過ごし、社会やいろいろな場面で力を発揮していって欲しいと思います。

 

本田さんが早稲田に進学した動機について聞かせてください。

私は北海道立札幌南高校のバレー部に在籍していました。札幌地区でも大した戦績も残していません。同じ地区に東海第四高校(現東海大札幌高校)があり高校3冠を達成していました。後に東海大学に入学後1年生から主力として活躍したメンバー達で、我々とは天と地の差がありました。当時の世界にはアメリカ男子ナショナルチームが世界一で、カーチ・キライという選手が、世界レベルでは決して身長が高くないのに攻守ともにオールランドに傑出しており、私はあこがれていました。1988年高校3年生の時、私は当然下手でしたがバレーボールが好きで「上手くなるにはどうすればいいのか」と、すがる気持ちで札幌の紀伊国屋書店でバレーの本を探していました。そして「カーチ・キライのパーフェクトクリニック」と出会いました。本のカバーの裏にはカーチ・キライと二人で写真と写っているのが本著の訳者「古市英」とありました。写真の下に古市先生(昭和43年早大卒)の経歴が載っており、早稲田大卒業後、70年代に渡米しアメリカ男子ナショナルチームのコーチを歴任後、当時は人間科学部教授、バレー部監督と記載されていました。当時、人間科学部が新設され、スポーツ科学科の一期生にはバレーに限らず男女多くの一線級の選手が入学していました。自分も古市先生が教える環境で学びたい、バレーボールをやりたい、とう“身分不相応な気持ち”がふつふつと沸き、ワセダを目指しました。

 

一浪の末平成元年に人間科学部スポーツ科学科に入学することができました

入学直後、記念会堂のバレー部の練習に見学して参加ました。自分の実力はサークルレベルなのですが、1年上の先輩達に熱心に入部を勧めていただき入部しました。学生服にスポーツ刈り、所沢キャンパスから練習のために遠く都内の早稲田記念会堂への移動、規律や練習も厳しく、「やはり自分には場違いだ」と思いました。しかし、志や技術の高い先輩・同期・後輩達と共にバレーボールができることができる」と気づき、監督、コーチ、先輩、同期にも恵まれそして助けられながら、なんとか“バレー生活”を続けることができました。もしも入部していなければ絶対に体験できない貴重な4年間を過ごすことができました。

 

早稲田の4年間はどんな学生生活でしたか。

入部してすぐに春季リーグ戦が始まり、当時は2部リーグでしたがそのレベルの高さ、個々の技術の高さに驚きました。1987年の北海道インターハイでプレーを見た選手も活躍しており、夢のような世界でした。当時はラリーポイント制ではなく、フルセットの試合が続くと、下級生の我々には他のチームの試合のビデオ撮影の役目もあり、体育館に遅くまで残ってから西早稲田の「早大バレー部記念館」(屋外バレーコートの敷地内にバレー部員が住む家屋があった)に帰りつくという日々でした。同期の仲間と近くの銭湯に行き(そこはフォークソングかぐや姫の「神田川」のモデルだった!)風呂に入り、ユニフォームをコインランドリーで夜遅くまで洗濯していたという記憶があります。北海道の田舎でのんびりとした環境で育った私は、鈍くさく、不器用であり、1年生がリードする体操や、ランニングやパス練習の時の掛け声なども上手くできずに途絶えてしまったりして、よく指導する上級生に怒られ同期にも迷惑をかけていました。しかし、リーグ戦では公式練習の時には校歌「都の西北」や応援歌「紺碧の空」がコートに流れ、えんじ色の早稲田のユニフォームを着ていることがうれしく、球拾いや試合中の床の汗の拭き取りも下手でしたが、勝手に「早稲田バレーの誇り」を感じてやっていました。

進学のきっかけとなった古市先生の英語の講義を幸い受講でき、自分がバレー部員であること、そして先生とつながることができた喜びで一杯でした。古市先生の講義の前日には練習から帰って「へとへと」でしたが、それでも必死に英訳の予習をして講義に出ていました。ところが、2年生の時の9月に古市先生が急逝され、ご自宅での葬儀に全部員が参列しました。まだまだご指導いただきたかったので残念でした。ご存命でしたらきっと今回の優勝を非常に喜ばれていたと思います。

合宿もいろいろな企業チームにお世話になりましが、「東レ合宿」が一番印象に残っています。一番暑い時期に行くことが多かったですし、午前、午後、そして控え組は夜の練習もありました。北海道育ちの私は暑さに弱く、人よりも汗をかくため、熱風が流れる体育館でレシーブで私がフライングをした後はコートが濡れて「床が海になる!」と怒られ、私が水分を摂っていると先輩から怒られ、苦しい合宿でした。千葉県勝浦市での合宿、砂浜でのつらいランニングも強く思い出に残っています。

1年生の2部秋季リーグで優勝し、入替戦を早稲田の記念会堂で勝利し1部昇格を果たしました。当時は部員数も少なく、Bチームがやっと組めるくらいで、レギュラー組との差が激しく、私がBチームのレフトでスパイクを打ちました。また、控え組は、練習の前に女子部や早実や早稲田高等学院の練習にもよく参加して腕を磨きました。毎日がバレーボールの日々でした。

 

早稲田で学んだことがいきていますか。

こうした苦しいバレーボールの4年間でしたが、あきらめずに物事に真摯に向き合い、悩みながらも試行錯誤、思考を繰り返して行動していくことで、少しずつでも打開し、曇り空のわずかな隙間から光が差してくることを学びました。仕事や趣味の自転車競技でも苦しいときに頭の中で流れるのはいつもあの応援歌「紺碧の空」です。バレー部で経験したことを思えば乗り越えられるというように考えています。推薦入学のエキスパートの選手と高い志をもった泥くさい一般入試組が融合して切磋琢磨する。本来の学生スポーツの理想を追求しつづけていくことが早稲田のスポーツがめざすところだと思います。それを4年間実践していけば、社会に出ても自然とリーダーの立場で牽引していけるのだと思います。

 

卒業後は紆余曲折、天職のリハビリテーションの仕事に就きました。

4年生の就職活動時にはバブル景気にも陰りが見え始め、学生にとっては厳しいものでした。北海道出身であったこともあり、厳しさを知らず北海道拓殖銀行に就職しました。銀行でも不器用なまま営業などを担当し、バレー部の時と同様に悩みましたが、ようやく銀行員としてやっていけるかなと思い始めた5年目に、会社は突然、経営破綻してしまいました。さてどうするか。高校3年生のときに足首を靭帯断裂、手術後に受けた後のリハビリの経験が強くあり、「理学療法士」の資格を目指すことで再スタートをきりました。幸いにも妻に家計を支えてもらいながら、4年間リハビリの専門学校に通い、国家資格を取得し、地元にある恵み野病院リハビリテーション科に平成14年に入職しました。 現在、同病院で理学療法士として、病気や怪我で生活に必要な動作がしづらくなった患者さんに適切な運動療法を個別に行い、生活の中で安全に動けることを目指すリハビリテーションを提供しています。

 理学療法士は、主に移動に必要な「起き上る、立ち上がる、立っている、歩く」ことを練習し、その患者さんに適切な方法や補助具を使用したりすることを指導しています。具体的には、脳卒中などで半身が麻痺した方や、転倒により、太ももや足首の骨を骨折し、手術した後の方や、いろいろな病気でベッドに寝ている時間が増え、筋力が低下した方が主な対象です。処方は医師からの指示ですが、行う運動療法の内容や負荷は理学療法士が決めて行うことが多く、患者さんの背景や現状の評価、コミュニケーション能力も必要になってきます。具合が悪かったり、痛みがある方に動いてもらうため、大変さはありますが、歩けなかった方が1人で歩けるようになり笑顔で退院していく姿をみると大きなやりがいを感じます。患者さんの動作の改善が進んでいくためには何をどのように進めていくかは、早大バレー部で学んだ、学生主体で考え、個々やチーム力を向上していくということが活かされていると思っています。

 

これから早稲田を目指す高校生中学生に対してメッセージをお願いします。

早稲田大学バレーボール部は私が在学していたときより、「来る者を拒まず、去るものを追わず」であったと思います。その風土のおかげで私も4年間を過ごすことができました。先輩や後輩のなかにも初心者で入部してくる人もいました。一般入試組にも、他の大学に比べ、技術、精神力の向上や試合で出られ成長できるチャンスや可能性の高い、恵まれていると思います。「日本に6人制バレーボールを導入した」という誇りもあります。いつも厳しい姿勢や考え方、行動が求められます。自分を高めていくには最良の環境だと思います。ぜひ早稲田のバレーボール部を目指し、入部して自己実現や人間力を向上していって欲しいと思います。

 

本田 欣誠さん (ほんだ きんせい)

1988年(昭和63年)3月北海道立札幌南高校を卒業、1989年(平成元年)4月に早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に入学。在学中はバイオメカニクスゼミに所属、1993年(平成5年)3月に早稲田大学を卒業し、北海道拓殖銀行に入社。1998年(平成10年) 札幌総合医療専門学校(現北海道リハビリテーション大学校)に入学してリハビリテーションを学ぶ。2002年(平成14年)北海道恵庭市の恵み野病院リハビリテーション科に入職。主に高齢者のリハビリテーションに従事している。

>>恵み野病院のホームページ 

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