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早稲田大学バレーボール部 創部 昭和6年(1931年)

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item11  部の紹介  高校生の皆さんへ>男子 >女子 item11
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item1h3a1c1b2a3a1b3b1a3a3a1a1a えんじの人々(32)「挨拶と約束」

関山 徹さん (昭和37年 政治経済学部卒業)

2018年3月掲載

早稲田大学バレーボール部の卒業生OB・OGでつくる稲門バレーボール倶楽部。関山徹さん(昭和37年卒業)は、9人制時代の早稲田大学バレーボール部に入学、2年生の時に部として初めての2部降格を経験したあと全日本大学選手権準優勝。卒業後は実業団チームを率いて社業との両立を貫きました。「文武両道とは何か」についてお話を聞きました。

 

――今年は、男子が学生日本ーになることができました。今年のチームはどのような印象でしたか。

非常に落ち着いた選手達、という印象です。ただし内に秘めた闘争心や勝利への意欲、ここだと思った時の集中カはすごいものがあったと感じます。選手たちの高校時代のキャリアに加え、松井監督、市川・伊東両コーチ。そしてトレーナー、管理栄養士のスタッフ、アナリスト、マネージャーたち、ベンチのスタメン以外の選手達との一体感が素晴らしかった、と思います。喜入祥充主将以下4年生の目つきがいい。私は実業団チームの監督を務めましたが、その経験からみると、一流の選手になるかどうかのチェックポイントは、“目つき・腰つき・食いつき"だったと思います。「いい目つきをしている」「腰がしっかりして体に安定感がある」「とにかくよく食べる」この3つのポイントがすごい選手になる共通点でした。昨年(2017年)3 月の稲門バレーボール倶楽部(OBOGが参加する組織)の総会で指導委員会の活動方針が示されました。男子部そして女子部をとおして、「文武両道・挨拶・規律・感謝・科学的トレーニング」の方針がしっかりとまとめられていました。男女指導委員長の三浦康太郎さんと吉田千絵さんの見事な指導方針に感心しました。「現役選手とスタッフ、そして支えるOBOGみなの総合力の勝利だった。」そんなことを実感しました。

 

――今から60年余り前に、早稲田に入学した動機は、そして実際に入学入部していかがでしたか。

都立高校でバレーボールをしていました。早大進学が第一志望でした。大学ではバレーボール続けるとは思っていませんでしたが、たまたま高校のバレー部のOBの一人が早大理工学部にいて、実技の授業で戸塚コートの早大バレー部を見て勧められました。今思うと無謀な事でした。一年生の春の富士フイルム合宿は、受験勉強で太った体には地獄でした。ただただボールを拾う、うさぎ跳びで足腰が痛くなる、和式トイレには座れませんでした。しかし、夜、畳の上に座り円陣になってのミーティングでは、井上暢秀主将(昭和34年卒)や、佐藤嘉晃マネージャー(昭和34年卒)が中心となり、ボール拾いの一年生にも上級生と同等に発言させる。上級生といえども自分の事は自分でする。暴力などは一切なし。先輩は後輩の面倒みるもの。ということ教えられました。ワセダバレーの原点は、自主性と話し合いの精神であり、先輩・後輩の関係は上下ではなく、礼儀と円陣、車座の精神であることを教えられました。特に4年生は厳しかったけれど素晴らしかった。佐藤マネージャーは怖かったけれど、一年生を自宅に呼んでご飯を食べさせてくれました。

 

――学生生活の4 年間で思い出深い事、バレーの試合や練習での思い出、はありますか。

2 年生の時、早大バレー部として初めて2 部リーグに転落しました。最大の屈辱でした。特に遠藤弘主将(昭和35年卒)はじめ4年生の苦しみは大変だったと思います。再起をかけて、基本からやり直す、思い切った練習を、ということで、炎天下の戸塚コートで、(当時は早稲田通りと明治通りの交差点に近い屋外のコートで練習していた。現在はバレーボール部のクラブハウスがあるマンションが建っている。)ただひたすら、ロングパスとサーブとレシーブの単調な練習を繰り返しました。OB も心配で、沢山応援に来てくれ叱咤激励されましたが、「頭を丸めろ」とか、「一列に整列して訓示する」とか、そんなことは一切なく、いつものように、円陣を組み、一言一言かみしめて話してくれました。そしてインカレ(全日本大学選手権大会)の直前に、HC(当時は9人制で、ハーフセンター)兼スパイカ一の宮崎八十六さん(昭和三十五年卒)が手首を捻挫。急きょ2 軍の私がHC となり神宮のコートへ(当時のバレーの主要な大会は都内神宮外苑の屋外コートで開催されていた)。無我夢中で試合しました。我に返ると、中央大学との決勝戦でした。試合は負けましたが、準優勝。何か、涙も出ない、あっという聞にすぎていった“神宮コート”でした。天国と地獄を味わいました。あの時の遠藤主将以下の4年生は、今思うと本当につらかったと思います。しかし、下級生につらくあたることもなく、ただひたすらに、自らを鼓舞していました。遠藤さんは「早稲田大学バレーボール部50 年史」を作成したときの実務担当チーム4人(蘇馬幸栄さん昭和32年卒・青木良文さん昭和33年卒・遠藤さん昭和35年卒・関山)からなるメンバーの一員でした。

 

――「早稲田でバレーをすること」で学んだことはなんでしょうか。

それは、「上下のへだてなく議論すること」、「挨拶出来ること」、「常にこれでいいのかという批判的かつ主体的な意見を持つこと」、「先輩は後輩の面倒みるもの」、そして、「上下関係を越えた良き仲間に恵まれること」、「感謝の気持ちを持つこと」だったと思います。「良きリーダーは良き右腕を持つ」のだと思います。これは社会人としても大切なことだと思います。井上主将には佐藤マネージャーという素晴らしい補佐役がいました。私達の同期では土川靖之さん(昭和37年卒)という素晴らしいマネージャーがいて、影の苦労をすべて引き受けていました。チームとしては残念ながら貧弱でしたが、社会人となってからも、同期のまとまり強く、今も変わりません。

 

――これから早稲田を目指す高校生、中学生に対して、メッセージをお願いします。

私は、会社生活、そして今の地元での地域活動を通して、素晴らしい友人や仲間に恵まれました。もちろん高校時代のバレー部の仲間もそうです。人の価値は学歴や大学のランクによるものでないことを痛感します。まずは、他との比較ではなく、「早稲田が好きだ」という素朴で純粋な気持ちが第一と思います。恋愛みたいなもので、理屈じゃないように思います。新入社員当時、同期生には国立大学卒の優秀な人達沢山いました。「読み、書き、計算確かにすごいなあ、頭いい人達だなあ。」と率直に思いました。しかし一方で、「こんな人達と仲間になれるなんて、いいじゃないか」、と思ったものでした。

 

――2020年の東京オリンピックへ向けて、バレーボール界が取り組むことは何でしょうか。

私の短いバレーボール指導者の経験から言いますと、一流の選手、オリンピック代表級の選手になる条件は、「まず素質・そして努力・環境」 という3段階だと考えていました。しかし、今は違います。「まず環境、そして素質・最後に本人の努力」という3 段階になっていると思います。オリンピック選手、野球・水泳・サッカー・卓球・体操・スキー・スケート、その他どんな種目でも、皆生まれてヨチヨチ歩きの時から、指導する親がいて、泳いで、ボール蹴って、打って、そういう環境になかで育ち、その中から素質あるものが伸びていく。本人が自覚し、努力し、オリンピック選手になる。そのような3段階になっているのだと思います。バレーボールはなかなか、そのような環境にはないようです。しかし、世界のバレーボールはプロ化されていますし、オリンピックで金メダルを取るには、日本代表選手はもう子供の頃から、プロになる覚悟が必要でしょう。すでにプレミアリーグはプロだと思いますが、サッカーやラグビ一、バスケットに人気では追い抜かれました。大胆にプロ宣言したらいいでしょう。

私は、1962年(昭和37年)に「仕事とバレーの両立」ということをモットーに入社し、名古屋工場の新入社員として労務部厚生課に配属されました。この時、私は早稲田バレーで学んだ2 つのことを心がけました。

① 誰にでも挨拶する ②誰に対してでも約束を守る。この2つでした。

工場では事務や現場に様々な職種の人々が勤労しています。多くの人たちが構成する集団でした。私は、こうした人たちひとりひとりに必ず声を出して挨拶しました。どのような小さな事でも、約束したことは、出来た、出来ないは問わず、誰に対しでも約束を守りました。パソコンも電卓もコピー機もない時代、酒飲めず、悪筆でそろばんもダメな私は、達筆、そろばんプロという仕事の仲間たちに本当に助けてもらいました。いまでも彼ら彼女らとは文通してつながりを続けています。

挨拶は上下関係ではなく礼儀であり、約束を守るということは信頼であること。車座の精神。そうした大切なことを早稲田の4年間で教えてもらいました。

 

関山徹さん (せきやまとおる)

1958 年(昭和33年)東京都立大学付属高校卒業、高校在学中は9人制のエーススパイカーとして活躍。(但し、戦績は目黒区大会レベル。)同年4月に早稲田大学政治経済学部自治行政学科入学。在学中は、2年生の時、1959年(昭和34年)9人制のHC(中衛センター)として全日本大学選手権大会準優勝。(但し、春季リーグ戦では2部転落。)4年生の時、1961年(昭和36年)全日本大学選手権大会3位。1962年(昭和37年)に早稲田大学を卒業、同年住友軽金属工業株式会社に入社。名古屋製造所労務部勤務。前年発足のバレー団で活躍、1967年(昭和42年)同チーム監督に就任。1969年(昭和44年)日本リーグ入りを果たす。1978年(昭和53年)バレー団を退き、本社人事課長。取締役人事部長、取締役大阪支店長、常務取締役を歴任。本社転勤時より、稲門バレーボール倶楽部幹事となり、1981年(昭和56年)発行の創部50周年記念誌作成の実務担当の一翼を担う。1996年(平成8年)稲門バレーボール倶楽部幹事長に就任し、創部70周年記念事業等を行う。2002年(平成14年)に幹事長を退任。

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