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 早稲田大学
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item1b1 えんじの人々(3)バレー王国で引っ張る!

野本一広さん(男子部・教育学部・昭和55年卒)  2009年6月掲載

〜呉バレーボール協会理事長として奔走〜

戦艦大和の10分の1の姿が出迎える人気の「大和ミュージアム」がある広島県呉市は、”バレー王国”広島の中でも、さらにバレーボール熱が高い土地柄です。戦前は実業団バレーのパイオニア「呉海軍工蔽バレー部」が日本一に輝き、わが早稲田大学チームとその覇権を争いました。その呉バレーボール協会理事長で、文字通り子供から大人シニアまで、地元のバレーをまとめ、牽引しているのが野本一広さん(教育学部・1980年卒)です。

呉バレーボール協会は、1928年(昭和3年)に創立、昨年創立80周年の記念祝賀会が開かれました。昭和9年は、早稲田が大学から体育会排球部として承認され、関東学生リーグで初優勝を飾った記念すべき年ですが、その年の早稲田は全日本選手権で決勝まで進み、呉海軍工蔽バレー部と対戦。「早稲田大学バレーボール部50年史 集まり参じて50年の歩み」によりますと・・・

「早稲田は初優勝へ闘志と気力をみなぎらせて闘い、予想通り決勝に進出。対するは当代実力随一の呉海軍工蔽であった。試合は、スタートから1点を争う好打攻守の応酬で観衆を酔わせ、スタンドは興奮のるつぼと化した。熱戦、熱闘、ジュースの連続、フルセットの末ベテランの揃う呉海軍工蔽に凱歌があがった。敗れた早稲田も悔いなき闘いであった。

呉海軍工蔽 21−9 23−25 22−20 早稲田」

 

野本さんは、広島の名門崇徳高校から昭和51年に入学、現役時代はセッターとして活躍し、卒業後昭和56年に昭和56年に呉で就職し、職場で9人制のバレーチームをつくりプレーを始め、呉協会にチーム登録し、地元でバレーボールに取り組んでいました。 昭和63年に、呉で全国9人制総合の女子大会が開催されました。その時大会のお手伝いをしたのが、呉バレー協会の仕事に携わるようになったきっかけだそうです。

Q いつから呉バレー協会のお仕事を始められましたか?

A(野本さん) その後、審判資格B級を取得し、全国大会(熊本)、ピースカップ(H.元〜6)、アジア大会(H.6)、国体(H.7)の審判員を経験しました。ピースカップの時に、OBの岡田英雄さんが何回か来呉され、懐かしく話した思い出もあります。

Q 理事長にはいつから?

A 平成9年頃から協会の総務関係の仕事をやり始め、気がついてみると協会の先頭で活動していたようです。平成19年に理事長になりました。 

呉バレーボール協会のホームページをいちどご覧ください。http://www.kva.jp/

ほんとうに充実した内容で、呉の人たちがバレーボールをどれだけ愛し、どれだけ大事にされているかがわかります。80年を経た歴史、 呉海軍工蔽のこと、早稲田との関わりなどを詳しく知ることが出来ます。

理事長としても、好きなバレーボールに自らも楽しく取り組んでいらっしゃるようです。

「バレーボールの普及は、『底辺の拡大から』と考え、小・中・高のバレー教室等を行っています。幸い、JTチームや、寺廻 太さん(高校の同級生)、加藤陽一さん(JTに所属していた)等や、地元企業の協力を得て、かなり幅広く、盛り上がりを持って活動中です。」

また、呉のバレーボールの歴史についても、「呉には、明治後半に海軍工廠が設置され、その当時からバレーが盛んに行われていたようです。呉協会も昭和の初期に創立し、昨年で80周年の節目を向かえました。その記念として、80周年記念誌を発行し、希望者には無料で配布しています。(数に限り有りますが) 呉市との関わりとしては、「アジア大会、国体の時などは、必ずと言って良いほど、バレーを誘致しています。呉バレーボール協会が一手に引き受け、運営しています。また、新しく体育館を作った記念としてVリーグを誘致し、その後今年で7回目の開催となります。」

理事長のやりがいについてお聞きすると、「やるだけです。」ときっぱり。高校、大学、卒業後・・・と長くバレーボールと関わってこられました。そのなかでも早稲田の4年間は格別だと言います。「早稲田と呉の関わりは、正直、記念誌の編集で事実を知りました。当時の選手の方が、唯一一人生存しておられ、当時の話を聞き感動しました。」

そして、最後に現役学生に、「私が入学した時は、創部以来の3部リーグという時代であり、それから2部、1部へと昇格し、4年の秋にまた2部リーグを経験しました。実力が有るといわれていても、試合となると何が起こるかわからないというような経験を、いやと言うほど体験しました。いずれにしても「気持ち」の問題というのが、かなり大きい、他から何と言われても「自分を強く」が大切かな、と思います。他人からいくら言われても。自分がその気にならないとだめなのです。好きなことは、言われなくてもやる。嫌いなことは、いくら言ってもやりません。自分から、好きになる努力をしましょう。」そして、課題の男子には「まずは、1部復帰からがんばりましょう。」と話していただきました。

理事長3年目、野本さんは、目下呉市で開催する7回めのVリーグの準備に奔走されています。

呉バレーボール協会のホームページへ

2008年月発行の「稲門通信」に守屋寅雄さん(昭和11年卒業)の寄稿文にも、早稲田と呉海軍呉工廠との関わりが書かれています。野本さんが聞いた岡田英雄さんの昔話はこのときのものだったのではないでしょうか。

「 私は昭和8年入学後、赤城氏の勧誘を受け入会したが、中学同窓の高橋重治君(中衛右)は受験前から即戦力として勧誘されていたのである。同期入会者は、三上修平(稲門会名簿に記載されていないが、3年間、前衛左として主要なメンバーであった)、多田長幸(前衛中)、岡田英雄、高山克巳、木村正城の諸君であり、戦力は増強された。

 同8年、夏休暇には、赤城主将の発案による西日本転戦を実施し、福岡、広島、呉、神戸の各市所在の各チームと対戦し、貴重な体験をした。当初の計画では京都、名古屋の両市を含めていたが、炎暑の候の安宿暮らしに体調を損なう者が多く、やむを得ず神戸に於いて転戦は中止したのである。

 呉市に於いては、偶々、呉市排球協会主催の西日本排球大会が開催され同協会の特別の計らいに依りスコットホールチームも早稲田の名を名乗り参加した。試合では難なく決勝戦に進出し、当時、全日本の選手権を保有していた呉水雷チーム(海軍呉工廠水雷部)と対戦、第1セットは惨敗、当方の得点は2~3点であったか。

 第1セット終了した途端、漁業網元の親方らしい風体の地元の応援者から「それでも早稲田か・・」との叱声が掛かる始末。この叱声に我々一同無言のまま汗を拭いながら、「早稲田」と言う名の重みを痛感したのでないか。私自身も闘志が湧き上がった。

 第2セットは俄然、大接戦、ジュースの繰り返し、28対28の得点、夏の日も暮れかかり、審判の判定も困難となり、試合続行不能と判断され、優勝は呉排球協会の預かりとなる前代未聞の結果となった。後に、さすがの呉水雷の選手の中には「早稲田は恐い(強い)」と洩らしたとのことである。」

この「えんじの人々」シリーズでは、稲門バレーボール倶楽部の会員の消息や各界で活躍するすがたを紹介していきます。そうした卒業生がいらっしゃったらご連絡ください。ご自分での文章も歓迎いたします。